摘み食ひ万歳。

長文書いてゐる途中に回転寿司屋で19皿食つた。満腹してほんの少し幸せな気分になつた後で続きを書かうと読み直し、随分大人気ない文体に一驚するもそのままうpすることにした。だつて面倒臭いんだもん。


さて昨日も触れた山口県母子殺人事件だが、人々がF青年を吊せと合唱するのが気に食はない人々がゐるらしい。わー、冷静な論調ステキー(棒読み)。で、人々が本村洋氏の怒りを「理解」するといつてゐるのが理解できないと。ほほう。
他者に感情移入する回路がなければ小説読んでもスポーツ観戦しても、およそ他者が関わる全てのことが楽しくあるまいに。まさか純粋に技術的側面にしか興味がないとか。「ここの文章構成がすばらしい」とか「上腕二頭筋のうねりが美しい」みたいな。さういふ楽しみ方も無論アリだが、それだけでは何か気色悪いぞ。
嫌味はおいといて、「他者」の感情を理解する、また理解するふりをすることは大切なことではなからうか。自分と他者が異なることを理由に理解を拒否するのは、他者が自分と同じ理解を共有することを疑ひもしない態度*1と同程度に愚かしいことではなからうか。
その意味で私は今回の件で人々がF青年を吊せ吊せと叫ぶ光景を好意的に眺めてゐる。彼らには隣人の怒りと悲しみに寄り添ふ姿勢が見えるからだ。たとへただ叫ぶだけで他に何もしなくとも、賢しらなことをぬかして社会秩序といふ共同幻想を害する輩よりは余程ましといふものではないか。
「罪なき者、汝石持てこの者を打て」(だつけか?)と人格者を気取るのも大いに結構だが、皆が皆自らの罪とやらを自覚して自分に人を裁く資格はないとか言ひ出したら、後に残るのはリアル北斗の拳の世界だらうよ。救世主が現れる今度の世紀末まで一世紀近く待つつもりかね? 全然嫌味おいてなかつた。
うら若き女性を殺害した上屍姦し、さらに母にすがる赤子を絞殺する外道。彼を吊さずには正義が示されないと義憤に燃えて叫ぶ人々と、遥か遠い国で幼子が貧困に苦しめられてゐるのをほつとけないと白いゴム買つて騙される心優しき人々は多分同じものだ。
私は彼ら善男善女を蔑まうとは思はない。時折指差して笑ふかもしれないが。

*1:自分がされたら嫌なことは人にするな、といふ類のやつだ。