コメントを頂いた。

先日のコメント欄。


とく 『>「バカボンカメラ」で何で民族差別になるんだらう?
リンク先に書いてあるみたいですが……?』
ふむ。これのことだらうか。

バカボンカメラって実在するし。
http://image.blog.livedoor.jp/gammo/imgs/6/c/6cd8ffaa.jpg
Posted by トーリス・ガリ at August 08, 2006 22:56
やはり私にはわかりさうにない。










冗談はこの辺にして。コメントを下さつた方は多分ここのことを指してをられるのだらう。

 在日の知人の前で、うっかり「バカチョンカメラ」と口走ったことがある。その後、彼は、ことさらに「バカボンカメラ」という言葉を使った。韓国語で「日本」は「イルボン」だ。何度目かで、胸の奥にボッと火が付き、飛びかかりたい衝動にかられた。民族差別とは感情にじかに響くものと初めて知った。
(充)
つまりこの在日にとつては「バカチョンカメラ」とは「莫迦・朝(鮮)・カメラ」なわけだ。それにしても鮮人はいくらいつても「バカチョン」における「チョン」が「朝鮮人」を意味してゐるものではないといふことを理解しないのな。そら被差別利権として大切なキーワードなのだらうけど。
話がずれた。真偽はどうあれ、件の在日氏は「莫迦・朝(鮮)・カメラ」と理解してゐるから「バカボンカメラ」、つまり「莫迦・(日)本・カメラ」といつたわけだ。「バカボンカメラ」といふ言葉を殊更に使用されたことで「胸の奥にボッと火が付」いた東京新聞の記者様の思考回路は理解の外だが、あへて試みるならばその口吻に日本人を莫迦にする意識を感じ取つたといふことなのだらう。
で、だ。この記者氏の記述からすると彼は「バカチョンカメラ」なる言葉には朝鮮人蔑視のニュアンスが含まれてゐると理解してゐるやうである。そして在日氏も同様の理解があると思はれる。この場合は共通理解があるから差別的な言辞であつたと評価することは可能かもしれない。だが、「バカチョンカメラ」の「チョン」について共通の理解が無い場合はどうなるだらうか。いづれかのみが「チョン」を「朝鮮人」として認識してゐるケースを考へてみる。
1)日本人のみがこの「チョン」を「朝鮮人」と理解してゐるだけの場合
日本人は朝鮮人に対する差別心を満足させるだらう。朝鮮人は日本人が差別してゐることに怒るかもしれないし、または日本人の無教養振りを嘲笑するかもしれない。
2)朝鮮人のみが(ry
朝鮮人は怒るだらう。だが日本人に差別意識がなくその言葉を使用してゐるのなら、日本人は戸惑うだらう。
おわかりだらうか。結局「差別されてゐる」と、「差別されてゐる側」の人間が認識するから争ひになるのである。この場合「差別されてゐる側」の主観のみが問題とされ、「差別する側」の主観や実際に使はれる言葉はどうでも良い。例へば、キムチは朝鮮人が愛しまた誇りに思つてもゐる彼の国の代表的な食物である。だが、朝鮮人は相撲取りの朝青龍が「このキムチ野郎」と罵倒したとき差別だと怒つた。いやキムチは御国の誇る代表的な食物ではないかといつても仕方が無い。仮に朝青龍が「この納豆野郎」とか、「このカクテキ野郎」といつても怒つたに違ひない。
といふわけで、要は示された態度や言葉に「悪意」を感じるかどうかなのだ。件の在日氏が「バカボンカメラ」ではなく別の言葉を使つたとしても東京新聞の記者の胸には火が付いたことだらう。そのまま燃え尽きてしまへば面倒ないのに。
結局在日が「在日(朝鮮人)であるが故に」差別され悪意を向けられる対象であると自認してゐる限り、安息の日は来さうにない。自分がどう解釈するかの問題だから、客観的にみてどうかといふのは意味がないのだ。相手にその気があらうがなからうが、自分が差別だと感じればそれは差別といふわけだ。OKよくわかつたから半島に今すぐ帰れ。
主観的認識の問題に留まる限り、結局は「被差別利権」の問題に過ぎない。セクハラ問題にも通じるなこれは。