「写九」でもすればいいんぢやないかな。

さうしたら無防備マンあたりがやつてきて拱手傍観してくれたりして。何の解決にもならんけど。
さて。何だか気の毒な事件があつたらしい。

通り魔暴行被害者が1回反撃で相手は意識不明… 「不運な逮捕」 http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080910/crm0809100100001-n1.htm

かういふ場合、「起訴イコール有罪ではないし、ましてや逮捕イコール有罪などとする風潮はをかしい」といつた類の意見を目にすることが多い。その通りではある。また、「逮捕といふ行為は慎重に行はれるべきで、逃亡や証拠湮滅の恐れがない場合は逮捕すべきでない」といふ意見もまた良く見られる。これもまたその通りではある。だから車内での痴漢行為を理由とした私人逮捕なんて論外ですね!といふ意見は滅多に目にしないのは不思議ではあるが。
さて。逮捕された人間を色眼鏡で見ない社会、それは一体どういふものだらうか。「『推定無罪』の原則が市民に『常識』として共有されてゐる世界」? 素晴らしい。実に結構な社会に思へる。だがそれは見てくれだけだ。眠いしだるいので長々と書くつもりはないので端的に言ふ。逮捕された人間を色眼鏡で見ない社会、それは「警察を信用してゐない社会」でしかない。反対に警察が人を逮捕する場合には十分な根拠を持つてゐるからだといふことを概ね信じていいといふことは、つまり逮捕された人間はそれ相応の嫌疑があるから逮捕されるに至つたのであり、だとすれば市井の善男善女がその者に対してある種の先入観を抱くのは自然なことであらう。「逮捕されたからといつて犯罪を犯したとは限らない」といふ言説は法的には全く正当ではあるが、実際それが常識として共有される社会は全体主義国家か警察が腐敗してゐるかまたはその両方で、だとすれば昨今この類の意見を目にすることが多いのは余り喜ぶべき状況とは言へない。
次に、逮捕は謙抑的になされるべき、それが実現した社会といふのはどういふものかと考へてみる。端的に言へば、「証拠湮滅や逃亡のリスクをある程度認容する社会」である。その恐れがない場合のみ逮捕しないとは言つても、人は善人とは限らないしまた合理的に行動できるわけでもない。ならば「合理的に考へて」その恐れがないと判断した場合でもある程度の割合でさういふことをやる者は出現するだらう。特に自殺も一種の逃亡と見るならば尚更である。さらに逮捕が謙抑的になされることの反射的効果として、「それでも」逮捕された者に対してはやはり一定の先入観を持つて見られるであらうことは想像に難くない。
つまるところ「逮捕されたからといつて偏見で見んな」とか「無闇に逮捕すんな」といつた「法的に正しい」意見(基本的には私も同意する)が「常識」となつた社会は結構ろくでもない社会だらうとは言へる。前者の方なんかまさに現在進行形で警察だけでなく検察、裁判所、弁護士をも含めた司法といふシステムに対する不信を栄養にして国民の間で常識へと成長しつつある認識だと思ふが。
果たしてそれは本当に「正しい」、いや「望ましい」ことなのだらうか。