気楽な稼業と来たもんだ

まづは東京新聞「筆洗」(3月28日)から。

▼一九三〇年代に亡くなった小説家、梶井基次郎にはこんな文章がある。「桜の樹の下には、屍体が埋まっているに違いないのだ。その血と肉を根から吸い上げて行くからこそ、あんなに美しい花を咲かせることができる。」

視覚的イメージを想像するといささか不気味だが、日本人の桜への思ひ入れを示す文章としては有名であり、私も桜の咲く季節にはふと思ひ出す一節である。ここで終はつてゐれば別段文句はないが、何とかう続く。

▼詩人の宗左近さんは、このことばにつけて書く。

一寸アナタ、宗左近ですつてよ。「あの」宗左近。「ゆんゆん」の。

「民主主義憲法の樹の下には、戦死した若者の屍体が埋まっているに違いないのだ。その血と肉である理念を根から吸いあげてゆくからこそ、あんなに美しい花を咲かせることができる」(宗左近『私の死生観』新潮選書)

…コメント不能。余り死者を冒涜しないで欲しいなとは思ふ。この後にこの欄の著者が日本国憲法(当該コラムでは「民主主義憲法」と表記)は与へられたものかも知らないが云々と書いてゐるが心底どうでもいいので割愛。
次、「小朝日」こと毎日新聞の夕刊「近時片々」(3月31日)から。

 「戦争は軍同士の先頭であるべきだ」の原則を米国は一次大戦まで守った。二次大戦もそれで臨んだが、日本の重慶ソ連ヘルシンキ、ドイツのロンドン各無差別空爆で変わる。終着点が東京空襲や広島・長崎原爆投下という無慈悲な事実。

…コメントする気にもなれん。ダメ? ダメか、ダメか、もつといいねえ、もつといいその、キンマン、イトマン、キンマンコだよ(意味不明)。


新聞のコラムニストといふのは、随分気楽な商売らしい。