希望較差、ねえ。

カツユキ帝国(ブログ朝)より。ちなみにここのブログ主は国会議員の政策秘書(試験組)である。朝日新聞の記者やら弁護士やら東大生やらのブログが次々炎上するこの御時世に、かういふ紹介の仕方はネット放火魔と大差ない気がするのだが、彼は謙虚な性格だから炎上はすまい。言はば信頼の表現である。嫌がらせと大差ない信頼表現しかできない私の表現能力については今更どうにもならないが。
http://blog.livedoor.jp/katsu0510/archives/14141000.html
で、このエントリで紹介されてゐる本の内容なんだが夢に向かつて走り続けてその先にゴールがなかつたフリーでアルバイターな人々が社会のお荷物になつてアラ大変ざます奥様、負け犬どもがこちらを見てますわ気持ち悪い、アラやだ“Arbeit macht Frei”つて知らない無教養な連中はこれだから以下略つて話らしい*1。何といふか、果てしなく余計なお世話つて感想しか浮かばないんだが、実際問題貧乏人のために米櫃に手エ突つ込まれたくはないやねえ、勝ち組の人たちとしては。君らが下卑た優越感を満喫するためには、俺ら負け組は必須のアイテムだらうがと思はなくもないけれども。
著者の処方の一つとして「コミュニケーション能力の訓練」とかある。これはヲタやらニートやら気違ひモドキやらの処方としてもポピュラーつてか他に引き出しはないんかお前らな意見なわけだが、私には些かの疑念がある。
(自らを「普通の人」とみなすといふ意味での)普通の人からみて、ヲタやニートその他の人々は「面白い」存在であることがままあるが、それは彼ら個人の持つ個性によるものではなく、コミュニケーション能力の不足による言葉の選び方や身振りが「面白い」のではなからうか。つまりコミュニケーション能力の増大は彼らから「面白さ」を奪ふわけで、それは彼らとコミュニケートする動機付けをなくすだけのやうな気がする。で、コミュニケーション能力が向上した誰にも相手にされない連中が残ると。素晴らしいね。


と、自分のコミュニケーション能力の不足を開き直つてみる29の夜。明朝から仕事だ。行きたくねえなあ<これが言ひたいがためにここまで話を引つ張つてみた

*1:例によつて例のごとく本当はどうか知らん。