戦場にかける橋。

サル、ゴリラチンパンジー
…ぢやなくて。故会田雄次氏の『アーロン収容所』を読了した後だとなかなか味はひ深いものがあるねこのタイトルは。ライミーなんざ皆死ね死ね死んでしまへ(実に爽やかな初夏の挨拶)。
さて。相変はらずはてな村界隈では非モテ論争が大変盛んなやうだ。君らそんなに色恋沙汰が好きか。この色気違ひどもが! もつと他にやることはないのか。アニメとかエロゲーとか風俗とか。と思つたものの、私も今年で31だからさういふ感想は胸に留めておくだけにしたい。オトナの余裕といふやつだ。
で、こんなエントリがブックマークされてゐた。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060622/1150898491
顔面は恋愛における一要素でしかなく、それを絶対条件とみて恋愛から逃避する正当化理由にしてゐるのは卑怯であると。またですか。
いつまでもここで揉める根本的原因に、恋愛における外面的な要素についての非喪と喪の理解の差がある。
非喪:外面的な要素は審査項目のひとつ
喪:外面的な要素は審査の第一段階
大方こんな理解でいいだらう。であるから非喪は「他の要素磨けばいいぢやん」と御高説を垂れることになるし、喪は「一次審査通らねえ奴が次のこと考へても意味ねえんだよバーカ」と反撥することになる。
で、女を連れてゐる外見の良くない男を見た際の事実の把握についても、非喪は努力の結果ないしその男に何か別の魅力があると考へるのだらうが、喪の場合は「それでも俺よりイケメンだし」「騙されてる」「キャバクラの同伴出勤ぢやね?」といふことにならう。
あとは約一年前に書いたこれを参照してほしい。
http://d.hatena.ne.jp/ryokusai/20050701#p2
喪が人格的に問題があることは否定しない*1。だが、喪よりさらに人格的に問題がある連中でも恋愛が可能である現状からは、人格的な問題は恋愛において外面的な要素よりも比重が低いと断言してもさう的外れではあるまい。
でもまあ、それ以前に非喪と喪では「優しさ」とか「誠実さ」といつた概念の理解に溝があるのが問題なのかもな。女の言ふ「可愛い」と男の言ふそれくらゐに差があるぞ多分。


だからまあ、非喪の人々はいい加減喪との溝に橋を架けるやうな真似は止すが良い。渡つた先で不可触民扱ひされるのがわかつてゐてその橋を渡る莫迦はさうおらんよ。仮にゐたとしても、かつての同胞の憂き目を対岸から眺めるのは嫌だからやつぱりやめて欲しいが。

*1:してもいいのかもしれないが、私自身は人格的に問題がありすぎるので代弁できない。誰かやつてくれ。